「単純に書く」とは
前回、毎日投稿するには「単純に書くこと」と書きました。
でもこれって分かりにくいなって自分で思ったんですよね。
なので逆説的になりますけど、単純に書くには複雑な体験をしなければ書けないと思います。
書いてる時は過去なんて一瞬で思い出すじゃないですか。
一年間なんて思い出す時は一瞬です。
ですから書くときも同じように思い出す作業をするだけでいいんです。
人間思い考えるということは全部過去にあったことを思い出すことです。
ですから今書いている時に特別な工夫をしたって殆ど無駄なんです。
できることは思い出してそれを書くこと。それが「単純に書くこと」です。
書いている時に工夫を凝らしたって飾りつけをするだけのようなもので大した効果になりません。書いていない時の経験が書いている時に発揮されるんです。
私の場合は多くの場合読書した結果です。
効率的な体験
殆どの人は気持ちを言語化できていないか、大した経験をしていないから書けないんでしょう。
でも経験というのは読書をすることでどうにかなります。読書というのは色んな人の経験を効率よく追体験できるものです。
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身体的な体験も貴重は貴重ですけど、自分の身体で得た経験は所詮その場限りのことで、一般化、つまり言語化できにくいんですね。
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ですからその人にしかわかりません。
私も格闘技をやりましたけど、身体的な痛みを言語化したって「痛い」というばかりです。それを練習を続けるにあたって痛さに鈍感になっていくんです。
それは身を持って体験すると充実した身体体験になるんですけど、言語化したって仕方無いことだとさえ思います。
自分ひとりの体験は言語化する時の説得力にはなりますけど、体験は所詮一瞬の思い出になるだけで言語化しづらいです。
勿論体験は体に刻まれるので無駄だといいたいのではありません。やればやるほど成長できるものなのでとても面白いものです。ただ言語化しづらいというだけです。
やろうと思えばできますけど、それは大変な労力です。なんでかというと体験を言語化しているお手本をある程度知らないと自分で一々言葉を編むことをしなければならないんですよ。
オリンピック選手だって喋りが下手な人多いじゃないですか。あれは身体的な体験を人よりしまくっていても、その体を得たその人にしかできない体験だからでしょう。
言語化というのは一般化、つまり普遍的な言葉にする作業ですから、特別な体験は言葉にしづらいし、したところで大抵は陳腐になるだけです。
私自身、身体的な体験も沢山していると思ってますけど、それをブログにかけといわれても書く気がしません。なんせ身体で得た経験だからですね。
体一個の経験にすぎないので、書けないこともないですけど、量産するのは難しいと思います。
一方、読書に関しては幾らでも書けるんですね。ですから身体体験について書くとしたら読書と併せて書いたほうが書きやすいかもしれません。
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実際書きましたし。
アウトプットするにはインプットが必要。
自分の中に何か書くべきものがあると思うのは間違いです。自分はただの器にすぎず、それ以上のものではありません。
ブログなどの文章を書くのはいわば経験の貿易のようなもので、人は経験の通過点です。
ですから流れてきたものは別のところに流し返さないといけないし、自分が書いたものが大したものじゃないといっても嘆くことはありません。所詮流れてきたものが大したものではなかったんです。
よく自分のしでかしたことで炎上することを恐れて殊更気遣った発言をしている人がいますけど、そういう人の発言は面白くありません。
発言に大衆に対しておもねった発言をしたってそんな文章を読む必要が無いからです。
それは事務的な文章を読んでいるのと同じようなもので読む意味があまりないと思います。
人は人のことが気になるんです。ですから上手な文章である必要はなくて、その人自身のことが出ていればいいと思います。
これはブログに限らないことですけどね。
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世の中にはへたくそなブログがたくさんありますけど、下手であっても長く続けているブログには必ずと言っていいほど読者がたくさんいます。
なんでかというと、沢山の記事があるとその人自身の人となりが分かるからです。
文章の表現が「ばかだな」「あほだな」と思っていても、人間誰にだってあほなところはありますから、読みながら自分自身に投影して、気づかぬ間にその人自身を追ってしまったりするんです。ですから恥ずかしがる必要はないです。